スピッツ 草野マサムネの詩の世界 第2回 「死とセックス、あるいは宇宙」

1 死

 死のモチーフは、ごく初期からしばしば登場している。

僕らはいつの日か 死ぬからこそ生きるのさ
ラララララ 輪廻を巡る
(「怪獣ギター」1989年)

死にもの狂いのカゲロウを見ていた
時間のリボンに ハサミを入れた
ひとりじゃ生きてけない
(「死にもの狂いのカゲロウを見ていた」1990年)

どうせパチンとひび割れて
みんな夢のように消え去って
ずっと深い闇が広がっていくんだよ
(「ビー玉」1991年)

時の淀み 行く手を知り
明日になればこの幻も終わる
(「胸に咲いた黄色い花」1991年)

明日になれば僕らもこの世界も
消え失せているのかもしれないしね
(「海ねこ」1992年)

 ここには、生命の終わりである死をみすえて現在の生を静かにながめる視線、それもややニヒリスティックな視線がある。この視線は楽曲中にさりげなくはさみこまれ、豊かな像を想起させるやわらかな詩の世界に、快とも不快ともつかない緊張をもたらしているようにおもえる。わたしたちはそこに、暗く蒼い色彩をみたり、見てはいけないものを見てしまったような得体の知れない不気味さを感じることもあるだろう。だが、この視線はすぐにかれの詩がもつ独特な倫理へと組みかえられ、また同時に、もしかすると宗教的ともいえる官能を穏やかに匂わせるようになる。

 このモチーフに深く近づいていくために、まずは死にかんするかれの発言をみてみる。

 小学校の低学年のときに、父方と母方のおじいさんが2年続けて死んだんですよ。死体を初めて間近で見て、死ぬのがすごく怖いって思った。ついこの間まで笑ったり怒ったりしてたのが、まるで石みたいになっちゃって。TVとかで観てた”死”とはまるで違うじゃないですか。そのことにすごくびっくりして、死ぬのが怖くて怖くて。死亡事故のニュースが流れてくるだけでゾーッとして耳を押さえたりしてた。

 高校1年のときに、何かしらないけど鬱になった時期があって、そのときも親には悟られないように明るく振る舞ってはいたんだけど、そのときに本当にたくさん、いろんなことを書いてる。何のために生きているんだろう、生きている必要は本当にあるのか、何のために生まれてきたんだろう、とかね。
(1993年6月号 月刊カドカワ

 あとやっぱ子供の頃の感覚に返ると、セックスも死も恐怖の対象だったと思うんですよ。だからそういう部分をずっと引きずってるとこもあると思うし。でも、まあセックスに対してはその怖さの質が変わってきてるっていうか。ただ、死に対してはあんまり変わらないんですよね。やっぱりよほど強烈な宗教かなんかを得ない限りは無理だろうって思うし。

 小学校ん時とかも──一時期僕らが小学校の時に切手収集が流行ってて、みんな切手を一生懸命集めてて、俺も周りに影響されて「切手集めはおもしろいなあ」と思って集めるんだけど「ずうっと一生、こうやって物を収集するっていうことをして、死んだ時にそれって何の意味があるんだ?」っていうことをふと考えたりしだして。そうすること全部無意味に思えてきちゃうし。まあ、物を収集してる時にそれをみんなで見せ合ったり情報交換したりっていうプロセスを楽しんでる人はいいんですけど、自分一人で集めて悦に入るっていうのはもの凄く不毛に思えてきゃったりとか。そういうとこでもう小学校ぐらいの時から「どうせ死ぬんだから」って考えてましたね。
(1998年11月号 bridge)

 ここであからさまに表出されている「死の恐怖」は、幼少期よりかれをとらえて離さなかったようにみえる。それは成長の過程で、ある程度は意識の下に抑えこまれていたとはいえ、さながら台所の生ゴミが臭うように時おりかれの感覚をつき刺しつづけたにちがいない。さらにそれはまた、詩にたびたびあらわれる特徴的な視点ーたとえよろこびの絶頂にあるときでもどこか冷めた視点ーを形づくるのに影響したかも知れない(これは詩にかぎられず、たとえばロビンソンでブレイクスルーを果たした際のインタビューでも「まあ単純に売れるのがいい曲とは限らないし、もうメンバー全員28歳でデビューしてからもだいぶ時間が経ってるから、大ヒットとかしてる曲やアーティストの人気が水ものかっていうのはよくわかってるしーその辺はわりと冷めて見てるんですけど。ただ一度でも時代とリンクできたことは単純に嬉しいと思ってますけど」とシニカルに語っている*1)。

 しかしながら、かれは「死の恐怖」からたんなるニヒリズムに陥ることなく、それがよびおこす暗闇のイメージとじゅうぶんに拮抗しうる世界をスピッツという集団のなかでつくりあげていった。かれの才能がそうさせたのか、あるいは環境がそうさせたのかといったような問いはここでは取りあつかわない。わたしたちが近づくことができるのは、表出された言葉のつらなりから、闇をひかりでまるごと包みこむような世界を像としておのおの把握するところまでだからだ。

 そうした、独自のふくらみをもつ世界とはいったいどのようなものだろうか。そこに足を踏み入れるにはすこし遠回りをする必要がある。


2 セックス

 死に対抗しうる手段として、かれは「性」や「愛」をあげている。これらを広い意味でセックスと言いあらわしても間違いではないだろう。かれにとっては、このセックスこそが死の暗がりとたたかうための現実的な武器であった。

 俺、歌やポエムの永遠のテーマは、セックスとデス(死)だと思うんですよ。だから、そういうのは常にある。自分の中でも一番大きいテーマだし、いつも深いところにそれらがある。昔はむしろ、テーマがセックスに傾いてたのが、最近だんだんデス(死)に向って来てるかもしれないけど
(1994年6月号 B-PASS)

 だからどうせ死ぬっていうことで虚無になるわけではなくて、何かしらこう生きる意味というか、「自分みたいな人間が生きる意味っていうのは何なんでしょう?」っていうようなことを考えて、やっぱりそういう性の部分とかが出てきたんですかねえ

ー例えば死っていうものの持つ巨大な空白に対抗するものとして性的なものを見いだすまでは、何を以って対抗していたの?

 う〜ん、何を以ってかなあ、結局性的なものじゃないにしても、もの凄い曖昧な言い方になっちゃうけど、やっぱり愛と言われてる部分のことですよね。それをなんとかもどかしいながらも出そう出そうとしてたと思う

ー恋愛っていうのは草野正宗の中ではどのように位置づけられているのかなあ、と。

 恋愛ですか? いや、やっぱり生まれて生きている意味そのものだと思いますけどね。自分にとってはですけど。まあ、人にとっては闘いのほうが意味があるっていう人もいるかもしれないけど、草野正宗個人にとっては生きることそのものっていうことですね

ー自分の中で例えば恋愛っていうのが生きてく上でのアイデンティティであるというか、人とのつながりというのが生きてく上での自分自身の意味であるっていうのは、何かの局面で自覚したわけ?

 いや、それは自然にそうなってきたのかなあ…う〜ん…あとやっぱり女の人と実際に、まあいろいろ出会ったりつきあったり別れたりとかしてると、女の人って恋愛のためだけに生きてる人って実は少ないんですよね。っていうことがなんとなくわかって。そうじゃない子とかに会った場合になんか、自分はいかに恋愛とかで生かされているかっていうのがわかってきたって感じかなあ。割と大人になっても男の人って例えば仕事とか──言ってみれば闘いですよね? 恋愛にしてもそうだけど。そういうのによっかかって生きてる人が多そうだけど、女の人っていろんなものに好奇心とかアンテナ張り巡らせてる人っていうのが多いような気がして。俺割とね、20代前半までずっと男も女も頭の中なんて似たようなもんだと思ってたんですよ、凸か凹かっていうだけで。でも実はなんか凄い違うんだなあっていうのを20代半ばぐらいで感じ始めて、そういうところでふと「自分は?」って見た時に、俺は恋愛のために生きてるなあって思ったし。まあ、でも古内東子さんみたいな(笑)、女の人でもそういう人はいるんだろうけど

ーそこで初めて死に対抗し得るなにがしかの武器を手にしたって感じ?

 う〜ん、いや、ずっと手にしてたんだけどそれに自覚的になったっていうことですね。そうですねえ、そうはっきり自覚することでなんか、いろんなことがやりやすくなるっていう

ーこういうような状態になってもう一遍自分の中の大きなテーマである死っていうものと向かい合った時に、その恐怖感っていうのは変わってきました?

 恐怖感ですか? う〜ん、いや、根本のとこでは何も変わってないと思うんですけど。まあでも結局凄くぬくぬくと生きてきてるわけだから、なんかあんまり軽はずみにそういうこと語っていいのかなっていうようなこともたまに考えたりするし。だけど凄い戦乱の地に生きてる人間も平等に死ぬんですよね。そういうことを考えると、やっぱり歌わなきゃいけないっていうか考えなきゃいけないなと思う。目を逸らすこと自体が不自然ですから。いまだにだからよくわかんない黒い穴みたいな死ってずっとあるんですけど。だからといって死後の世界云々に行くわけでもなし。だからずっとそれは変わんないですよね、それは大きくあるっていうことは

ー生きていくっていうことが、死っていう巨大な黒い穴に向かって大きな道がただぼーっとあるのではないと。

 うんうん

ー結局そこに向かっていくのかもしれないけれどもそれ以外の道もきっちりあるんだなあっていう感じなんだ。

 そうですねえ、それは作れるっていう。まあ俺に限らずやる気さえあればそこに行くまでの道にいくらでも価値を与えられるっていうような

ー言ってしまうと余りにも身も蓋もないけれども、それは愛によってちゃんと作れるんだよという。

 そうですね。まあ、愛って言葉もね、安易に使うとよくわかんなくなってくるんですけど。ほんとは愛って言葉はあんまり使わないで歌を作ろうってずっと思ってたんだけど最近使っちゃうんですよね(笑)。パフィーにあげた曲も「愛のしるし」だったし(笑)
(1998年11月号 bridge)

 こうしたセックスのモチーフは詩のなかに数多く登場する。それは、大雑把にいうとすれば、不可避の別れや死を凝視した個人が、ひりひりと切迫する孤独感のなかで他者と出会い、交わり、ついにはその深淵から脱出する希望を得るといった像をとる。
 それはたとえば、このようなフレーズから想起される。

君のおっぱいは世界一
君のおっぱいは世界一
もうこれ以上の
生きることの喜びなんか要らない
あしたもここで君と会えたらいいな
(「おっぱい」1990年)

とても寂しい
とても寂しい僕は今すぐ君に会いたい
(「うめぼし」1991年)

君に会えた 夏蜘蛛になった
ねっころがって くるくるにからまってふざけた
風のように 少しだけ揺れながら

孤りを忘れた世界に 白い花 降りやまず
でこぼこ野原を 静かに日は照らす
(「プール」1991年)

もう離さない 君がすべて
風は冷たいけど
(「魔法」1992年)

今日 一日だけでいい
僕と二人で笑っていて
(「海ねこ」1992年)

君に触れたい 君に触れたい 日なたの窓で
漂いながら 絡まりながら
それだけでいい 何もいらない 瞳の奥へ僕を沈めてくれ
(「日なたの窓に憧れて」1992年)

夢じゃない 孤りじゃない 君がそばにいる限り
いびつな力で 守りたい どこまでも
(「夢じゃない」1993年)

君はこの場所で ボロぎれみたいな
僕を抱きよせた
(「たまご」1994年)

誰も触われない 二人だけの国 君の手を離さぬように
(「ロビンソン」1995年)

でも会いたい気持ちだけが膨らんで割れそうさ
間違ってもいいよ
(「ハヤテ」1996年)

離さない 優しく 抱きしめるだけで
何もかも 忘れていられるよ
ほこりまみれの街で
(「スカーレット」1998年)

君の心の中に棲むムカデにかみつかれた日
ひからびかけていた僕の 明日が見えた気がした
(「流れ星」1999年)

時を止めて 君の笑顔が
胸の砂地に 浸み込んでいくよ
闇の途中で やっと気づいた
すぐに消えそうで 悲しいほどささやかな光
(「ホタル」2000年)

命短き ちっぽけな虫です
うれしくて 悲しくて 君と踊る
(「夢追い虫」2001年)

君と巡り合って もう一度サナギになった
嘘と本当の狭間で 消えかけた僕が
(「遥か」2002年)

それは恋のはじまり そして闇の終り
時が止まったりする
それは恋のはじまり おかしな生きもの
明日は晴れるだろう
(「恋のはじまり」2005年)

つかまえたその手を 離すことはない
永遠という戯言に溺れて
(「桃」2007年)

ああベイビー! 恋のフシギ さらにセットミーフリー
(「不思議」2007年)

君と出会えなかったら
モノクロの世界の中
迷いもがいてたんだろう
「あたり前」にとらわれて
(「砂漠の花」2007年)

君のそばにいたい 想っていたい
他には何もない 生まれてきたよ
遠くから近づいてる 季節の影を
忘れさせてくれる 悲しい程にキレイな夕焼け
(「夕焼け」2007年)

今すぐ抜け出して 君と笑いたい まだ跳べるかな
物語の外へ砂漠を越えて あの小さい灯
星になる少し前に
(「シロクマ」2010年)

消えたフリした炎でも 火種は小さく残ってた
君みたいな良い匂いの人に 生まれてはじめて出会って
(「恋する凡人」2010年)

美しい世界に 嫌われるとしても
それでいいよ 君に出会えて良かった
(「えにし」2010年)

ああ君は太陽 僕は迷わない
もう迷わない君と
(「君は太陽」2010年)

あなたに会いたいから 捨てれる それ以外は
(「ランプ」2013年)

君は光 あの日のまま ずっと同じ消えないもう二度と
(「スワン」2013年)

 また、より具体的には、「飛ぶ」ことと「溶け合う」ことが、ひどく重たい死に対抗しうるセックスの像として表出されている。このふたつの言葉にかんして、本人はこのように語っている。

ーで、この「空も飛べるはず」、ストーリーとしては、どうなんでしょう?

 今までずっと報われなかった人が、キミという人との出会いによってひっぱりあげられた、という
(1994年6月号 B-PASS)

ーこの”飛ぶ”というのは、せちがらい世の中(笑)を掻き分けるように飛ぶということなんですか。

草野「いや、これはもう幽体離脱ですよ(笑)。まあ瞑想でも夢でも宗教でもなんでもいいんですけど、もっと荘厳なイメージというか」

ー後光が差して解放するみたいな?

草野「そうそう。曼荼羅の世界へとか(笑)。だから、これはもうサーフィンで飛ぶって感じ」
(1994年10月号 ロッキング・オン・ジャパン

 前作の『空の飛び方』というのは、浮遊したり、鳥にように飛び立ったり、あと、魂だけがトリップしてるイメージでしたけど、今回の『ハチミツ』は、”逃げない”、その場所で溶け合うイメージです
(1995年10月号 WHAT'S IN?)

 今回のアルバムには、自分と相手との心のつながりや一体感がテーマになっている曲が多いから、直接”君を愛してる”って歌うよりも”ハチミツ”とか”溶け合う”って歌ったほうが、その感じがうまく伝わると思ったんですよね。ふたりの心が溶け合う感じを象徴する言葉が”ハチミツ”なんです。その感じをバン!とひとことで言ってしまいたかった
(…)
 ”生きる”ということがテーマになったのは、今年、命について考えさせられる事件(阪神大震災地下鉄サリン事件ほか一連のカルト教団関連の事件など)が多かったっていうのがあると思うんです。その影響を表すなって言うほうが無理だと思うんですよ。日本人の誰もが何かしらの影響を受けたと思う。どこかで生と死とか、なんで生きているんだろうとか考えさせられるような。16〜17歳のころに真剣に考えていたあの感じが蘇ってきたんですよ。そして今、27歳なりに、どんなふうに進んでいったらいいんだろうかとか、生きている意味みたいなことを考えてみることにもなって、考えていくことと、ひとりじゃなんにもできないってことに行き着くんです。人と人のつながりがないと人はたぶん死ぬんだろうなって…
(1995年 11月号 GB)

 ここで話されていることをふまえると、「飛ぶ」とは他者との出会いを契機に個人が死の重力から解放されるといった意味合いをふくんでおり、また、「溶け合う」とは個人どうしがつながって身も心も一体となることで死とその恐怖を消し去ることだと、ひとまずはいえるだろう。これらの具体的な像は、インタビューが行われた当時の楽曲にかぎられず、初期から最近の作品にいたるまであまねく登場しているようにおもえる。
 ふたつの像がじっさいに表出されている部分をいくつかひろってみる。

【飛ぶ】

今 鳥になって 鳥になって
君は鳥になって
鳥になって 鳥になって
僕を連れて行って
僕を連れて行って
(「鳥になって」1991年)

ハニーハニー 隠れた力で飛ぼうよ
高く 定めの星より高く
(「ハニーハニー」1992年)

飛べ ローランダー
飛べ ローランダー
棕櫚の惑星へ 棕櫚の惑星へ たどり着くまで
(「ローランダー、空へ」1992年)

君の冷たい手を暖めたあの日から手に入れた浮力
(「コスモス」1992年)

君と出会った奇跡が この胸にあふれてる
きっと今は自由に空も飛べるはず
(「空も飛べるはず」1994年)

しがみつく鳥を 探している 終わりなき旅
(「迷子の兵隊」1994年)

二人で絡まって 夢からこぼれても まだ飛べるよ
新しいときめきを 丸ごと盗むまで ルナルナ
(「ルナルナ」1995年)

大きな力で 空に浮かべたら ルララ 宇宙の風に乗る
(「ロビンソン」1995年)

すぐ届きそうな熱よりも
わずかな自由で飛ぶよ 虹を越えて
(「虹を超えて」1996年)

悪ふざけで飛べたのさ 気のせいだと悟らずに
いられたなら
(「仲良し」1998年)

ひとつずつ バラまいて片づけ
生まれて死ぬまでのノルマから
紙のような 翼ではばたき
どこか遠いところまで
(「ホタル」2000年)

笑ったり 泣いたり
あたり前の生活を
二人で過ごせば
羽も生える 最高だね!
(「夢追い虫」2001年)

まだ壊れないでよ 柔かな毛布を翼に変える
(「ババロア」2002年)

ささやいて ときめいて
街を渡る 羽のような
思い通りの生き物に変わる
(「ハネモノ」2002年)

すぐに飛べそうな気がした背中
夢から醒めない翼
(「遥か」2002年)

何なんだ? 恋のフシギ 生きた証
シャレたとこはまるで無いけれど
君で飛べる 君を飛ばす
はぐれ鳥追いかけていく
(「不思議」2007年)

今すぐ抜け出して 君と笑いたい まだ跳べるかな
物語の外へ砂漠を越えて あの小さい灯
星になる少し前に
(「シロクマ」2010年)

だから 思い切り 手をのばす 手がふれる
海原を渡っていく 鳥のような心がここに在る
(「つぐみ」2010年)

ばってん もう やめたったい こげなとこから
飛びたい 飛びたい 飛びたいな
飛びたい 飛びたい 飛びたいな
(「潮騒ちゃん」2013年)


【溶け合う】

ベチャベチャのケーキの海で 平和な午後の悪ふざけ
はかなげな笑顔で つま先から溶けそうだよ
(「惑星のかけら」1992年)

旅する 二人は旅する 手探り 闇をかきわけて
離れた心のジェルが 流れて 混じり合って はじける夜に
(「ハニーハニー」1992年)

一人空しくビスケットの しけってる日々を経て
出会った君が初めての 心さらけ出せる
素敵な恋人 ハチミツ溶かしてゆく
(「ハチミツ」1995年)

今 煙の中で溶け合いながら探しつづける 愛のことば
傷つくこともなめあうことも包みこまれる 愛のことば
溶け合いながら…溶け合いながら…
(「愛のことば」1995年)

柔らかい日々が波の音に染まる 幻よ 醒めないで
渚は二人の夢を混ぜ合わせる 揺れながら輝いて
(「渚」1996年)

あくまで優しい君に 謝々!! 赤い土にも芽吹いた
大空に溶けそうになり ほら 全て切り離される
鳥よりも自由に かなりありのまま 君を見ている
(「謝々!」1998年)

飾らずに 君のすべてと 混ざり合えそうさ 今さらね
恋人と 呼べる時間を 星砂ひとつに閉じこめた
「魚」1999年)

ぬるい海に溶ける月 からまるタコの足
言葉より確実に俺を生かす
(「さわって・変わって」2002年)

ハロー ハロー ハロー よろしくね 繋がってる
命に甘えて
ハロー ハロー ハロー ありのまま 受けとめる
今 君のすべて
(「ガーベラ」2002年)

二人浜辺を 歩いてく
夕陽の赤さに 溶けながら
(「エンドロールには早すぎる」2013年)

 以上、死に対抗する武器としてのセックスという視点から、かれの詩を眺めてきた。

 ところで、フリージャーナリストの烏賀陽弘道氏は、草野マサムネを「自分が死ぬということを、自分の人生観に取り入れて生きている(『Jポップの心象風景』p162、文春新書、2005年)」と評価して、つぎのように述べている。

 では、死をじっと見つめ続ける草野の表現は「暗い」のだろうか。私はそうは考えない。彼は人間を含むすべての存在を「必ず死ぬもの」「必ず滅ぶもの」として、ありのまま、自然にとらえているにすぎない。そして、その冥界の暗がりから生命の輝きを振り返る。その瞬間、生命はいっそう眩しい光を放つのだ。(…)
 僕もあなたも、永遠にここにいることはない。出会ってしまった以上、究極的には必ず死という別れが来る。だからこそ、いま二人でいるこの瞬間がいとおしい。限りある命だからこそ、無限の価値がある。これが草野マサムネの作品を貫くテーマだといっていいだろう。スピッツの歌を聴く人の多くが「切ない」「かなしい」という感想を漏らすという現象も、そう考えれば納得できる。(同書、p156-57)


 ここでは、草野マサムネの詩における死とセックスのモチーフの持つ意味が端的に述べられている。しかしながら、烏賀陽氏のいうように、すべての存在が死ぬ運命にあることを自覚し、その道の途中で出会う他者との関係やその生命の輝きを大事にするというだけでは、かれの詩のもつ独自のふくらみを捉えきれていないようにもおもえる。そもそも、こうした自己憐憫にも似た悲壮的なありかたは、死に対抗するというより、すでに負けを覚悟したところから生まれている。どうせ死ぬのだから、せめて出会えたよろこびを大切にしていこうよ、といった態度は、いまだ大地に重く縛りつけられており、やわらかな浮力を得ることろまではいたっていない。

 そこで、わたしたちはもうひとつの視線を導入しなければならない。ここでようやく草野マサムネの詩の世界に踏み込んでいけるはずだ。


3 宇宙

 かれの宇宙観は、死とセックスのモチーフをまるごと包み込んでいる。

 前、『惑星のかけら』ってアルバムを作ったときも、地球にいる生物って、元々は全部一つの魂だったんじゃないかなぁとか考えてたんですよ。地球の魂としてあったエネルギーが、分散していって色んなものに宿っているんじゃないかな、って。魂にしても肉体にしても、地球から生まれた一物質なわけで…。そう考えると逆にね、物質とか原子っていうのもすごくスピリチュアルなものに思えてくるし、実は科学と神秘っていうのは、将来的には同義になっちゃうかもしれないよね。なんか、宗教入ってるわけじゃないですよ、俺(笑)*2
(1994年8月号 B-PASS)

 現実的に考えると、逃げ場として存在している可能性はある。いや、昔は逃げ場として存在してたんですよ。小学生の頃かな、お祖父さんや親戚の人が続けて亡くなったことがあったんだけど、その直後、死ぬことにものすごい恐怖を覚えた時期があって。自分も居なくなっちゃうのかって考えると、たまらなくなって。だから、最初は願望だったのかもしれない。魂は永遠に存在するんだ、って考えがね
(1994年8月号 B-PASS)

 モノっていうのは、魂にしても何にしても、僕は完全に消滅はしないと考えているから。ただ、輪廻や生まれ変わりって、人間が考えているほど単純な繰り返しっていうものじゃあないとは思うから、まあ、分散したりはするかもしれない…(…)人間の意識とか魂とかって、ジェルとか液体状のものじゃないかという仮説を立てたんですよ。人間のタマシイも、木とか物体に宿っているようなタマシイも最初は地球というでっかい塊に一緒に宿っていたもので。タライみたいなものからコップですくいあげられて、人なり物体なりに与えられて。だけど死ぬことによって、もう一度大きなタライに戻されるって…そういうことなのかなぁと。その象徴として”ジェル”って言葉を使ったんです。水ほど滑らかじゃなくて、ちょっとドロッとした感じ
(1996年5月号 B-PASS)

 この世の出来事全てが地球っていう”惑星のかけら”の一部なんだと思うと、自分も宇宙を構成してる一員だと…思えるか、思えないかは任せます
(1992年9月号 PATIPATI)

 かれが語るような、個人は世界と分離しておらず、ただひとつの宇宙の構成分子として存在しているという認識は、わたしたちの常識からすると特異にうつるのかも知れない。しかし、じつはかれの詩の世界はこうした観方のもとに成り立っている。そこでは、それぞれの生命は、他とは絶対的に違う存在であると同時に、宇宙のエネルギーのひとつのあらわれとして存在している。言い換えると、ひとつの大きな宇宙にうらづけられて、あらゆる生命は活動しているという思想があるのである。

 この宇宙観を示唆する像として、たとえば、「海」「渚」「輪廻」などがあげられるだろう。
 まずは「海」にかんする発言をみてみる。

 行く前から車まで青くなっちゃうほど、海に行きたい気持ち。っていうか、”海に行かなきゃいけないんだ”っていう衝動を曲(筆者注:「青い車」のこと)にできたらいいなと思って書いたんです

ー”海に行く”という気軽なストーリーは、”輪廻”や”生きるということは木々も水も火も同じ”とか、歌詞に出てくる言葉の重さに、なにか反比例している印象を受けるのですが。

 そうですね。だけど、”気軽に海に行きたい”っていう気持ちの本当に奥深いところを探ってみると、輪廻とか、”海は母だから”とかがあるわけで
(1994年8月号 B-PASS)

 ここで「海」が生命の根源の象徴として捉えられていることはあきらかだろう。さらに「渚」という言葉についても、こう述べている。

 ”渚”というのは、普通には”波打ち際”を指す言葉だと思うんですけど、実は僕にとってかなり思い入れのある言葉で。というのも、生物学の先生が「水中でも陸でも空気中でもない、全部が溶け合っている場所を”渚”といって、生き物の一番最初はそこで生まれたと言われている」と教えてくれたから。それを聞いたとたんに”渚”という言葉自体が、素敵な言葉に感じられたんですよね
(olive 1998年 4/18月号) 

 こうした、ただひとつの宇宙の象徴である「海」や「渚」への憧憬をうたった詩は、たとえばこのようなものがある。

君の青い車で海へ行こう おいてきた何かを見に行こう
もう何も恐れないよ
そして輪廻の果てへ飛び下りよう 終わりなき夢に落ちて行こう
今 変わっていくよ
(「青い車」1994年)

限りある未来を 搾り取る日々から
抜け出そうと誘った 君の目に映る海
(「愛のことば」1995年)

君と地平線まで 遠い記憶の場所へ
溜め息の後の インディゴ・ブルーの果て
(「インディゴ地平線」1996年)

柔らかい日々が波の音に染まる 幻よ 醒めないで
渚は二人の夢を混ぜ合わせる 揺れながら輝いて
(「渚」1996年)

この海は 僕らの海さ
隠された 世界とつなぐ
鉛色に輝く この海は
隠された 言葉じゃなく
二人がまだ 出会う前からの
「魚」1999年)

ああ 君と歩く浅瀬
笑って 軽くなでるように
いつかは 傷も夢も忘れて
だけど息をしてる それを感じてるよ今
(「今」2000年)

何もない? 何かある? この道の彼方に
フツウだけど 確かに僕の目の前に広がる
明日 海を見に行こう
眠らないで二人で行こう
朝一番のバスで行こう
久しぶりに海へ行こう
(「海を見に行こう」2002年)

どれほど遠いのか知らんけど 今すぐ海を見たいのだ
(「群青」2007年)

昔から僕らが 持っていたもの
思い出そうぜ トビウオになれ オーラじゃなくて
直接さわれる ホンマモンのエクスタシー
(「トビウオ」2007年)

キラめくさざ波 真下に感じてる
夜が明けるよ
(「漣」2007年)

巨大な街の地下 抜ければ青い海
役割に縛られず
(「探検隊」2010年)

 これら「海」や「渚」の像はかれの宇宙観を空間的に象徴するものであるが、いっぽうで、もうひとつの「輪廻」の像はそれを時間的に象徴している。「輪廻」にかんしては以下の発言がある。

前世とか輪廻というのが本当にあるのかどうかなんてわからないけど、「ある」って信じてしまった方がロマンチックでいい。(1992年 4月 PATIPATI)

僕は、未来って読めないものだと思っているんですよ、いつも全然。あ…でも、つきつめれば、本当は過去も未来も違いはないっていうようにも思えはするんだけど
(1994年8月号 B-PASS)

たまに田舎の方に出ると やっぱり草むらに入ってったりするんだけど 幼虫とかサナギとか葉っぱにしがみついてるわけです。人間の世界とカンケーないところの 生命のサイクルを見ると妙にホッとするし、自分も生き物なんだなあなんて 当たり前のことをしみじみ考えます。
(1995年10月号 B−PASS)

要するに人間も小さな生き物だし、それをここ2年ぐらいで自覚させられることがとても多かったので。……必ず死ぬし、それでもまた生まれてくるんですよね
(2013年10月号 MUSICA)

 この世界においては、わたしたちが常識的に考えている時間の感覚ー左の過去から右の未来へとのびる矢印のような時間軸ーは失われている。その代わりに、ひとつの円環運動ともいうべき概念が発想されているようにおもえる。

 この図をもとにかれの宇宙観を強引に説明するとすればこうなるだろう。人間をふくむすべての個体は円周上に現象としてあらわれ、それぞれに異なった活動をしたあとで、ふたたび円の内部にもどっていく。ここでは通常の意味での時間は流れていない。ただ、ひとつの宇宙にうらづけられた個体としての運動があるだけだ。ちょうど季節が春から冬へと永遠に繰りかえされるように、個体はその生と死を無限に反復していく。

 この相から詩をながめてみると、出会いと別れ、すなわちセックスと死の像は、大きくちがった色彩をもってわたしたちのこころのなかに浮かび上がってくるだろう。

 では、こうした「輪廻」のモチーフを拾いあげてみる。

輪廻の途中で少し より道しちゃった
小さな声で大きな嘘ついた
(「死にもの狂いのカゲロウを見ていた」1990年)

タマシイころがせ
チィパ チィパ チィパチィパ タンタンタン
タマシイころがせ 虹がかかるころに
(「ビー玉」1991年)

くるくる回るくる回る 空も大地も
(「タンポポ」1991年)

いろんなことがあったけど
みんなもとに戻っていく
(「ヒバリのこころ」1991年)

待ちわびた僕の涙 落ちてにじむ様を見ていた
そして君は来ない 百万年前に約束した場所へ
帰らぬ日々 澄んだ水の中に
(「待ちあわせ」1991年)

ラララ 泣かないで
ラララ 行かなくちゃ
いつでもここにいるからね
(「魔女旅に出る」1991年)

いますぐ行くよ まわっているよ
いますぐ行くよ 壊れた時計の力で
(「野生のチューリップ」1991年)

うつらうつら柔らかな日差し 終わることのない輪廻の上
あの日のたわごと 銀の箱につめて
さよなら さよなら ネガの街は続く
さよなら さよなら いつの日にか君とまた会えたらいいな
(「田舎の生活」1992年)

迎えに行くから どうか待ってて
僕のこと仔犬みたいに
晴れた日の波のりは愉快だな
(「波のり」1992年)

メリーゴーランド メリーゴーランド 二人のメリーゴーランド
メリーゴーランド メリーゴーランド 二人のメリーゴーランド
ずっと このまま ずっと ずっと
(「日なたの窓にあこがれて」1992年)

はじめて感じた宇宙・タマシイの事実
たまごの中には いつか生まれ出すヒヨコ
(「たまご」1994年)

生きるということは 木々も水も火も同じことだと気づいたよ
(「青い車」1994年)

映し出された思い出は みな幻に変わってくのに
何も知らないこの惑星は 世界をのせて まわっているよ
(「涙がキラリ☆」1995年)

だんだん解ってきたのさ
見えない場所で作られた波に
削りとられていく命が
(「歩き出せ、クローバー」1995年)

待ちぶせた夢のほとり 驚いた君の瞳
そして僕ら今ここで 生まれ変わるよ
(「ロビンソン」1995年)

俺の前世は たぶんサギ師かまじない師
たぐりよせれば どいつも似たような顔ばかり
(「俺のすべて」1995年)

「愛してる」の響きだけで 強くなれる気がしたよ
いつかまた この場所で 君とめぐり会いたい
(「チェリー」1996年)

目を閉じてすぐ 浮かび上がる人
ウミガメの頃 すれ違っただけの
(「エトランゼ」1998年)

終わることなど無いのだと 強く思い込んでれば
誰かのせいにしなくても どうにかやっていけます
(「謝々!」1998年)

今から 箱の外へ 二人は 箱の外へ
未来と 別の世界 見つけた
そんな気がした
(「フィクファー」1998年)

それは謎の指輪 いつかドリーミーな日には
君が望むような デコボコの宇宙へつなぐ
(「さらばユニヴァース」2000年)

ハロー ハロー ハロー よろしくね
繋がってる 命に甘えて
(「ガーベラ」2002年)

ナイルのほとりにいた 前世からの鼻歌
やっと気付いてくれた ふりむいて笑いました
(「点と点」2007年)

抱きしめた時の空の色 思い出になるほど晴れ渡る
こんなして再び会えたから 話そうとするけれど何でだろ?
知らぬ間に戻される 恥ずかしき炎
(「P」2007年)

魔法のコトバ 二人だけにはわかる
夢見るとか そんな暇もないこの頃
思い出して おかしくてうれしくて
また会えるよ 約束しなくても
(「魔法のコトバ」2007年)

こぼれて落ちた 小さな命もう一度
匂いがかすかに 今も残ってるこの胸にも
翼は無いけど 海山超えて君に会うのよ
(「漣」2007年)

砂漠の花の 思い出を抱いて
ひとり歩いていける まためぐり会う時まで
(「砂漠の花」2007年)

そうだ走るんだどしゃ降りの中を 矛盾だらけの話だけど
進化する前に戻って なにもかもに感動しよう
(「恋する凡人」2010年)

待ちに待ってた 眠らないトゥナイト
天使もシラフではつらい 僕のハンドル壊れてるくさい
最高だ思い出すくらい 虫だった頃に戻って
(「どんどどん」2010年)

行ったり来たり できるよこれから
忘れないでね 大人に戻っても
(「未来コオロギ」2013年)

あなたに会いたいから どれほど 遠くまででも
歩いていくよ 命が 灯ってる限り
(「ランプ」2013年)

僕はきっと旅に出る 今はまだ難しいけど
初夏の虫のように 刹那の命はずませ
(「僕はきっと旅に出る」2013年)

あかさたな 浜辺から 陸に上がってからは
怖がりですり傷だらけさ

ほら全然ライブな手が 届きそうな距離で
今生のうちに会えた ハニー 気づいてる?
(「あかさたな」 2013年)

 じつは、草野マサムネの詩の世界においては、個体が生まれたり死ぬことは忌み嫌うべきものとして捉えられてはいない。それらはいわば表層の出来事であり、ほんらいの主体である宇宙の運動の単なるあらわれに過ぎないからだ。それよりも、生と死のモチーフをいわば触媒にして、宇宙からわけられた生命がいまここにあることの不思議や、おなじ宇宙を共有している他者と出会い、さらにはたがいに慈しみあえることの奇跡がすこやかに強調される。

 ここでは、どうせ死ぬのだから、せめて出会えたよろこびを大切にしていこうよ、といったような悲壮感はまるで消えてしまっている。死はもはや終局点ではなく、個体の活動を無意味にしてしまうものでもない。死が死でなくなり、生が生でなくなったとき、そこに残るのは生命の純粋な運動だけである。このとき、かれの宇宙観はたんなる思想という枠を超えて、意志と希望にあふれた、甘美で軽やかな倫理にまで高められているようにみえる。卑近ないいかたをすれば、心配することはない、大丈夫だ、おなじ夢ならいい夢をみよう、といったような積極的な姿勢がうまれているようにおもえる。

僕らこれから強く生きていこう
行く手を阻む壁がいくつあっても
両手でしっかり君を抱きしめたい
涙がこぼれそうさ
ヒバリのこころ
(「ヒバリのこころ」1991年)

君と出会えたことを僕
ずっと大事にしたいから
僕がこの世に生まれて来たわけにしたいから
(「恋のうた」1991年)

バスの揺れ方で人生の意味が 解かった日曜日
でもさ 君は運命の人だから 強く手を握るよ
ここにいるのは 優しいだけじゃなく 偉大な獣
(「運命の人」1997年)

春の歌 愛も希望もつくりはじめる
遮るな 何処までも続くこの道を
(「春の歌」2005年)

負けないよ 僕は生き物で 守りたい生き物を
抱きしめて ぬくもりを分けた 小さな星のすみっこ
(「小さな生き物」2013年)

 最後に、かれがかつて雑誌に連載していたエッセイの一部を引用して、死とセックス、あるいは宇宙にかんするこのささやかな素描を終わりにしたい。

 ところで、デジャヴに襲われた時のあの奇妙な時間の流れ方の中では、なんとも言えない快感を得られる場合が少なくありません。強いノスタルジーを感じた時の感覚に近い。
 デジャヴというのは、それまでの人生において実際に同じ風景、あるいは似た風景を必ず一度は見ているのだけれど、忘れていただけの話だとか、微妙な心理的作用によるものだ、などという人もいます。だけど僕はそれだけではないと信じたい。前世の記憶だったりするかもしれないし、あるいは母親の記憶の一部が遺伝してるってことも考えられる。母親どころか、先祖をどんどんさかのぼって、この地球上に生命体が誕生してからこっち、ずーっと積み重なってきた無限に近い記憶が僕らの脳ミソに、遺伝子に、刻み込まれてきてたりするんだから、もっと近いところの、例えば祖父が子供の頃に食べたアケビの実の味の記憶が、孫の自分にインプットされててもおかしくはないと思うんですよね。遺伝するのはクセ毛や顔立ちばっかりじゃないんじゃないかな。
 だけど、このテの話って、超能力でも霊魂でもUFOでもそうだけど、信じる・信じないよりも、「信じたい」って感じなんですよね。深夜に会話のネタが身近なところでなくなったりすると、猥談か、こういうきりのない神秘話に移りがちだよね。でも結局は、自分がここに存在しているってことが何よりも不思議だということにいつも気づく。この不思議の上に生きている喜びを、なんとなく噛みしめながらこれからもフラフラしていけたらなあ、と思う今日この頃です。
 と、いうわけで「ヒトはタビビト」、残念ながら今回でおしまいです。読んでくれたみなさん、どうもありがとうございました。
 またきっと、どこかで必ず会えるはずです。それは1万年、1億年後になってしまうかもしれませんが、その日までごきげんよう
(1993年6月号 月刊カドカワ

(了)

*1:スピッツ』p164、1998年、ロッキング・オン

*2:「科学と神秘が将来的に同義になる」という点にかんしては、宮澤賢治銀河鉄道の夜』初期形第三次稿において、つぎのような記述がある。「……みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれどももし、おまえがほんとうに勉強して、実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる。」)