スピッツ「おっぱい」の分析

『憂鬱と官能を教えた学校』を一通り読んで思ったのは、「あの歌を聴くとどうしてキモチいいんだろう?」というような、長いあいだ抱えていながらも解決する術を持たなかった疑問に、もしかしたらひとつの回答を与えられるのではないか、ということです。

そこで、ここでは試しに私の好きなスピッツの楽曲を分析してみたいと思います。取り上げるのは、インディーズ時代の名曲「おっぱい」です。



作詞作曲をした草野さんは、この曲について、「人前で歌ってもちっともいやらしくなかった」と言っていましたが*1、私はこれを初めて聴いたとき、いやらしさを感じるどころか、なんて哀しい歌なんだとゾッとしたことを覚えています。

さて、全体の構成を見てみると、イントロ-Aメロ-Aメロの変形-サビ-Aメロの変形-サビ-間奏-サビと考えられます。キーはGで、ダイアトニック・コードは、G、Am、Bm、C、D、Em、F#m(♭5)となります。基本的にこの環境のなかで成立している曲だと思います。(コードの根拠は手持ちのソングブック集より拝借致しました)

イントロは、G-Cの繰り返し。トニック(T=安定感を持つ)とサブドミナント(SD=不安定感を持つ)を行きつ戻りつします。後ろでドラムのリムショットがカツカツと鳴らされるなか、安定と不安定のあいだを揺れ動く様子にぐっと引きこまれます。この部分は曲の終わりにもそっくり出てきますが、また後述します。

Aメロ

G   Em  C    G D/F#
やっとひとつわかりあえた
Em   D  C G C
そんな気がしていた
G   Em   C  G
急ぎ過ぎても仕方ないし
  C D   G C G C
ずっと続けたいな

この冒頭は、歌詞と和声進行が見事にマッチした例のひとつだと思います。詞の意味から見ると、「やっとひとつわかりあえた」という達成感をともなった喜びが、すぐに「そんな気がしていた」と柔らかく否定されることで、徒労感や虚しさのようなものが後に残ります。機能としては、一行目は、T-T-SD-Tと弱進行が続いたあと、D/F#(D=緊張感を持つ)→Em(T)のドミナントモーション(強進行)になっています。ここでは緊張から安定へ進行することで、「わかりあえた」安心感が音によって表出されています。ところが、そのまま、あたかも気持ちが盛り下がっていくようにEm→D→Cと二度ずつ下降し、イントロでみられたG-Cに落ち着きます(T-D-SD-T-SD)。つまり、和音の進行も詞と同じようなニュアンスをもっているわけです。この「上げて落とす」あるいは「上がって落ちる」ニュアンスは、スピッツの楽曲を語る上で欠かすことのできない視点だと思っています。喜びのなかの虚しさ、虚しさのなかの喜び。これらアンビバレンスな感情を、そのどちらにも解決しないまま、まるごと唄いあげる才能が、草野マサムネならびにスピッツの魅力であると考えます*2。つづく三、四行目はD-Gのドミナントモーションで安定した終止となります。

Aメロの変形

G   Em  C  G D/F#
痛みのない時間が来て
Em D  C G C
涙をなめあった
G  Em C    G
僕は君の身体じゅうに
  C D   G
泥をぬりたくった
  C D   Em
泥をぬりたくった

Aメロに五行目が追加された形です。C→D→Emと、終止にトニックの代理コードであるEmが使われており、サビに向かってどこか煮え切らない感じが高まっていきます。Emはトニックというより不安定なサブドミナントと言えるかもしれません。「泥をぬりたくった」と二度リフレインされる詞が、それぞれGとEmというわずかに異なる和音によって印象を変えています。同じ詞が繰り返されることにより、満たされない思いがどうにもならないまま形だけ大きくなっていくような、やり場のないもどかしさがより強く表出されています。

サビ

  C      D G
君のおっぱいは世界一
  C      D G
君のおっぱいは世界一
   C
もうこれ以上の
 D    Em  D   C Cadd9
生きる事の喜びなんかいらない
   G      D     G C G C
あしたもここで君と会えたらいいな

不全感は、C→Dへ緊張感をともないながら高まっていき、最後のG(「君のおっぱいは世界い”ち”」)でひとまず満たされます。ここも?-?のドミナントモーションです。

つづく3行目から4行目は、C→D→Emと二度ずつ上り、D→Cと二度下がります。すなわちSD-D-T-D-SDと対称形をとっていますが、Tの代理であるEmはSDとして機能しており、このフレーズの内部では、不全感が盛り上がりつつも解決されずに係留していると考えます。「君のおっぱいは世界一」とうたい上げ、気持ちが満たされたのも束の間、再びもどかしい思いがわき起こってくる。その不安定な揺れ動きのなかで、なかば強引に「もうこれ以上の生きる事の喜びなんかいらない」と歌われているわけです。あらゆる解釈への可能性が開かれているという意味において、ここを楽曲中でもっとも味わい深い部分であると考えます。

そんな不安定感は、5行目のトニックGで解消され、D→Gのドミナントモーションで最も安定した形で終わりを迎えます。「あしたもここで君と会えたらいいな*3」という詞からは、悶々とした葛藤を経たあとにもたらされた小さな希望や安らぎが感じられます。冒頭から展開してきた曲がここにすべて収まるような印象です。ガラっと雰囲気を変える、見事な詞の運びだと思います。

以降、Aメロの変形-サビ-間奏-サビと繰り返されます。アウトロはイントロと同じように、G-Cが繰り返されますが、そこに「oh」というヴォーカルが加わっています。不安定なC=ohから安定したG=ohに解決して曲は終わります。

さて、試しにやってみましたが、いかがでしたでしょうか。

この歌をはじめて聴いたときに感じた「哀しさ」の意味が、うすぼんやりわかったような気がしています。

もうちょっと勉強してみたいと思います。

追記(2012/11/23)

「もうこれ以上の喜びなんかいらない〜♪」でさ、ブルースみたいに、ドミナントからサブドミナントに進行してんだな、つまり、不満が解決されないうえに、そのあとテンションまで加わって緊張感が生まれてる。曲の進行がこうなんで、「もうこれ以上の喜びなんかいらない」と言いながらも、すんげえ憂鬱な感じがするんだな。これがアンビバレンス。だって、ふつう、こんなこと宣言するときって喜び100%みたいな感じでしょ。それをやらないんだな・・・。で、その不安な感じをぐーぅと引き伸ばしたあとで、ようやく、「明日もここで君と会えたらいいな〜♪」で解決する。でも今度は、曲のスッキリした解決感と比べて、詞のほうが弱い。「君と会えたらいいな〜」くらいしか思わない。たとえば、一生オマエを愛すぜ!みたいに力強く宣言してもいいんだけど、やらない。煮え切らなんだ・・・。喜びに偏らないってところかな。とにかく絶妙なんだな・・・。

*1:『花鳥風月』初回版に封入の曲紹介メモ参照

*2:これは、代表曲とも言える「空も飛べるはず」や「チェリー」でも顕著です。前者では「君と出会った奇跡がこの胸にあふれてる」の後にすかさず「きっと今は自由に空も飛べる"はず"」と歌い、後者では「愛してるの響きだけで強くなれる"気がした"よ」とあくまでも断定を拒みます。たとえ喜びに満たされた時でもどこか冷めた視点で眺めざるを得ないような哀しみが感じられます。

*3:ライヴでは「あしたも君が元気でいたらいいな」と歌われていたこともあります。