スピッツ 草野マサムネの詩の世界 第1回 「イメージの海へ」 


(Photo by 高橋宣之氏)


イメージの海へ

 スピッツの楽曲がつつましくふり撒いている魅惑のもっともおおきなものは、並外れてゆたかなイメージを喚び起こすちからにあるといえる。古いわらべうたにも似た親しみやすい旋律にのせてうたわれる詩は、草野マサムネのはかない声とともにその香気をつよめ、わたしたちを無限のイメージの海へとさそう。かれらの作品のなかで、わたしたちはそれぞれ自分史の厚みに応じた多様なに出あい、他人と共有しようとしてもかならずどこかがこぼれ落ちてしまうような私的な感情のゆれに気がつく。
 じしんの詩作にかんして草野氏はこのように語っている。

 まあ、歌詞については、いかようにでも解釈できるような使い方をしているんですけども…(中略)何と表現したらいいかなぁ…だから、歌詞全体に、誰もが「そうだな」と思わせるような純一した意味を持たせることに、僕としてはそれほど意義を感じていないというか。ある人にはものすごく深い何かを与えるんだけど、ある人には全然何も与えなかったりするような詞こそ作ってみたいなと――そのためにちょっとシュールな内容になったり、変な言葉の組み合わせになったりするのがスピッツの詞、という感じかな。(中略)だから、ファンレターをもらったりする中でも、「何だかわからないけど、繰り返し聴いてます」っていう(笑)、そういう反応が実は一番嬉しかったりするんでね。(『1995.CAST 春 #11』)

 かれの詩作への態度はほとんどここで言い尽くされているといってもよい。すなわち、言葉をつかって堅固な意味を伝達するというよりも、鑑賞者がひとりひとり異なる無数のと遭遇するための母胎をつくるところに方向が定まっている。これは、わたしたちが社会生活において常識的に理解しているように、言葉があたかも生産者から消費者に商品を運搬するトラックのような役割を担っているという認識とは趣きが異なっている。似たたとえをつかうならば、むしろ、かれの詩は肥沃な大地そのものであり、たずねる者が日がな野を駆けまわりながら自由にものを生み出すことができる場であるといえる。そこでは、まだ見ぬ恋人に出逢う者もいるだろうし、得体のしれない感触を味わったり奇妙なひらめきをともなう体験をすることもあるだろう。
 わたしたちは、たとえ同じ楽曲を聴いていたとしても、それぞれまったく異質な世界をながめているのかもしれないのだ。
 この辺りの構造についてじっさいの歌詞をもとに接近してみたい。

 初期の楽曲「うめぼし」の冒頭はつぎのようになっている。

うめぼしたべたい
うめぼしたべたい僕は今すぐ君に会いたい

とても寂しい
とても寂しい僕は今すぐ君に会いたい

 ここで、たとえば<うめぼし>という名詞は、うめぼしの概念−青梅を塩漬けにし、赤ジソの葉を加えて色づけし、日に干してから漬け液に戻した保存食品−を意味するとともに、任意のうめぼしのを表現し、また喚び起こす。このうめぼしの像は、Aという人間にとっては、食卓にならぶ皿のうえに置かれたうめぼしの像かもしれないし、Bという人物にとっては、いましがた食べたコンビニ弁当の隅にあるうめぼしの像であるかもしれない。
 おなじように、代名詞<僕>は、自分を意味するとともに<僕>の具体的な像をあらわしている。この像はAとBではちがっているし、さまざまな形をとりうる。また、おなじように<寂しい>という形容詞は、その概念−心が満たされず、物足りない気持ちである−とともに、寂しいという像をあらわしているといえる。たとえば、Aという人物はこの語からひっそりと静まりかえった自室を像とするかもしれないし、Bは肉親の死にあったときの像を描くかもしれない。

 このように、表現された言葉は意味とともにを喚び起こすということができる。これらは同一物のふたつの側面であり、いずれかが欠けるということはない。ただし、意味は他者に伝達され共有されることを前提に固定されているという点で対他的であり、いっぽう像はそのひとじしんに依存して起こり、それを他者と共有することは困難であるという点で対自的な性質をもつといえる。そうした言葉の傾向を理解するためにわたしなりに図でしめすとするとこのようになる。

 わたしのかんがえでは、表現された言葉はふたつの経路をたどって把握することができる。つまり、言葉の意味は上図のaの経路を通って言葉をかんがえることであり、言葉のはbの経路で言葉をかんがえることだ。

 「うめぼし」は以下のようにつづく。

値札のついたこころ 枠からハミ出せない
星占いで全てかたづけたい
知らない間に僕も悪者になってた
優しい言葉だけじゃ物足りない

 ためしにaの経路をたどって言葉の意味をかんがえてみる。まず<値札のついたこころ>という言葉に意味のほうからせまっていくとき、わたしたちは靴のうえから足を掻くようなもどかしさを感じることだろう。それは<値札のついたこころ>という言葉を像としては把握できるものの、言葉の意味がわからないという単純な理由による。
 ここではあえて乱暴に、言葉の意味がわからないとはどういうことか、意味がわかるという逆のもんだいから説明してみる。たとえば<値札のついたこころ>は意味がわからないが、<値札のついた洋服>の意味はわかる。このとき意味がわかるのは、<値札>と<洋服>の関係性がつよいことを体験的に知っているからであり、意味がわからないのは<値札>と抽象的な<こころ>が関係する状況を具体的に知ることができないからだ。もっとくだいていえば、意味がわかる言葉は常識に沿ったものであり、意味がわからない言葉は語句どうしのつながりが薄い非常識的なものであるといえる。
 つまり、言葉の意味とは、言葉の客観的な関係のことであり、その背後にはわたしたちの体験的な認識がある。意味がわかるとは言葉のつながりが体験的な認識と対応することをいい(<値札のついた洋服>)、意味がわからないとは言葉が常識では捉えられない関係にあることをしめしている(<値札のついたこころ>)。とすれば、言葉がどれほど云わんとしている対象を鮮明に指ししめしているかどうかで意味の強度をはかることができるだろう。
 <値札のついたこころ>を意味としてたどっていったとき、わたしたちは意味がわからないという困難にぶつかった。それは表現された言葉が体験的な認識や知識と対応しないからであった。この場合、言葉における意味の作用は弱く、はんたいに像の及ぼすはたらきは強くなっている。ということは、すなわち、<値札のついたこころ>はもはや意味として把握することはむずかしく、そのかわりに、ただそれぞれのこころの海に像として喚び起こされることになるのだ。
 ここまで読んでこられた方はすでに気がつかれているかもしれないが、表現された言葉を把握するさいに、aとbの経路のどちらをたどっても行きつくさきはじつは同じである。もちろん、言葉を意味としてみるか、像としてみるかはまったくちがうが、でもちょうどサイコロのある面がわかるとその裏の面も同時にあきらかになるように、言葉における意味と像はたがいに相補的な関係にあるといえる。
 さて、「うめぼし」の詩を全体としてみていくと、単語どうしはそれなりの意味の強さでつながっているものの、フレーズごとにみるとほとんど意味のつながりを持たない関係にあることがわかる。わたしのかんがえでは、意味がそのちからを弱めるとき、たまっていたものがどっとあふれ出るように像があらわれる。これは像のちからが強いときに意味のはたらきは小さくなるといっても同じことだ。
 たとえば、<うめぼしたべたい>と<僕は今すぐ君に会いたい>は意味のつながりがうすい。常識的にかんがえると、うめぼしを食べたいという欲求がだれかに会いたいという感情をもたらすことはないからだ。しかし、意味としてはわからなくても、うたっていることはよくわかるということがある。さきの引用にもあったように「何だかわからないけど、繰り返し聴いてます」という場合である。このときわたしたちは<うめぼしたべたい>と<僕は今すぐ君に会いたい>という言葉の関係が喚び起こすをみているといっていい。
 Aという人間はこのフレーズから、うめぼしの酸味と恋人を思うときのせつない感情を像とするかもしれないし、Bという人物は、うめぼしから女性のしろい乳房にうきあがる乳首を連想し、異性をもとめるはつらつとした衝動を像とするかもしれない。像は鑑賞者にしたがってさまざまでありうる。ここがかりに<うめぼしたべたい><僕は今すぐ定食屋に行きたい>ということであれば、意味の作用が強くなり豊かな像を喚び起こすちからは小さくなるだろう。
 そして、このようにあくまで私的な領域にとどまる多様なを言葉で秩序だて、一定の意味をもたせることを解釈とよぶことができる。いいかたを換えると、詩を解釈しようとするとき、わたしたちは言葉の意味ではなくそれぞれに独自の像をながめているのだ。
 この辺りにかんするかれらの発言をみてみる。

三輪 マサムネの書く詞の意味については、統一した答えがメンバーの中にすら無いんです。本人に聞いても、かたくなに言わないんだ、こいつは。それで、いつの間にか一人一人が勝手に解釈するようになってるんです。みんなバラバラに感じてる。

草野 聴き手にどう解釈されてもいいんです。「このフレーズはこういう意味なんですよね?」なんて取材の時に言われて、ああ、それいいな〜イタダキって(笑)(『1998.4/13号 ビックコミック スピリッツ』)


 スピッツはどうにでも解釈できる曲を作っているんですけど、その一人一人の解釈が大正解ということで。(『2002.11月号 COSMOPOLITAN』)


 まず作っている俺もよく分かってないから(笑)何が言いたいのか分かっちゃうような詞だと負けたみたいな気がするし、種明かししたら、つまらないでしょ?(『2005.2月号 TV LIFE』)


 もともと歌で伝えたいものとかって、あんまりないんですよ。(『2000.9月号 JUNON』)

 ここで話されているように、草野氏は、じしんの詩に一定の意味をもたせることを慎重にこばんでいる。それどころか、つくり手であるじぶんでさえ詩の意味はわからないといい、さらに、うたで伝えたいことはないとまでいい放っている。これをわたしなりに読みかえれば、かれは言葉における意味のはたらきをできるかぎり小さくすることにより、言葉が像を喚び起こすちからを極限まで高めることを志向しているミュージシャンだといえよう*1
 また、別のインタビューでは同様のことをちょうど逆の方向から語っている。

 歌とかメロディとか音楽とかいう以前に、メッセージだけ突っ走ってるような音楽はあんまり好きじゃない。(中略)とくに歌詞ですね。まず言いたいことありきで、それを伝えるために音楽っていう手段をとってるっていうのは…それでもいいんだけど。それで完成されてればいいんだけど、なんかメッセージばっかりがダーッて強いものがあるから。そういうものを聞いて熱くなれる人もいっぱいいるでしょうけど、俺個人的にはあんまり。うん。あ、基本的にJ-RAPもあんまり好きじゃないかな(笑)メッセージが先にあるようなの、あるでしょ。言葉遊びとかやってる感じだったらいいいんだけど。(『1999. spring BREaTH』)

 これまでかんがえてきたことを踏まえれば、草野氏が好ましくおもっていない「メッセージだけ突っ走っているような音楽」とは、言葉における意味の側面だけが強調され、像を喚び起こすちからが相対的に貧しくなっているものをさすことが容易にわかるだろう。

 草野マサムネの詩は、難解であるとか意味がわからないといわれることが少なくないようだ。

−草野さんのような、イメージに包まれたみたいな、言葉アソビみたいな詞の世界って、取りようによっては難解だと思われません?

 難解…。あ、年配の人なんかには言われます、たまに。たぶん、そういう人って固まってるから…いわゆる”I LOVE YOU”とかわかり易い言葉があるほうが安心するんでしょうね。でも聴く人が勝手にイメージして…オレの考えと全然違うイメージを自分で膨らませて遊んでくれたほうが嬉しかったりするんですよね、作り手としては。誤解っていうのは無いですから、ワタシの辞書には(笑)僕等の曲に関しては。聴き間違えてるような歌詞を、そのまんま信じてくれちゃってもいいし。(『1992.10月号 B-PASS』)

 しかし、わたしたちは、かれの詩におけるとらえどころのない難解さの裏がわには、おどろくほど豊かなイメージの海が広がっていることをすでに知っている。むしろ、からだを波にゆだねどこまでも自由に泳いでいくためには、意味などわからないほうがいいのだ。
 わたしたちにできるのは、あらゆるに遭遇し、そのとらえどころのないイメージを言葉という鋳型に封じ込めて、なんとかして他者と共有し、あるいは他者のそれを理解しようとつとめるところまでであろう。
 その地道な歩みについては、ひとりひとりの手にゆだねなければなるまい。

(了)

スピッツ 草野マサムネの詩の世界 第2回 「死とセックス、あるいは宇宙」

*1:草野氏は詩作の技術について次のように語っている。「僕のやり方として、絵描くのと一緒で例えばリンゴっていうものを描くとして、それを油絵の具で描くとした時に、必ずしも赤だけで塗らないっていう。青とか黄色とかも入れていくうちになんかそういうほんとのリンゴの赤っていうのが見えてくるっていうところで、言葉っていうのも全然関係ないようなところからポッと入れたりとか、(中略)言葉によるコラージュみたいな。(中略)イヤでもイメージを浮かばせてやろうみたいな。イヤでもトリップさせてやろうみたいなね」(『スピッツ』1998、p11-12)