坐禅 40分 20分

・坐れ坐れ、妄想煩雑どうにもならん、眺めてるやつどいつだ、ぜってぇぶち抜くぞ、くそ。

・昨日、妙な確信を得た瞬間があった。目に見えているものしかなく、しかもそれがぜんぶ自分であるという感じ。川上老師のいう「どっぷり漬け」という表現がよくわかる。でも、これっていらない、すぐに捨てろ、救われたわけじゃなし。救われたも救われないもねーのか。

「自分勘定に入れないの、てめえどうなったろうが人の為=そうすると不思議なことの万ず病が吹っ飛ぶ」

「人間に生まれることをさして有難いとも思わず、かえって厭うほどの世間ですか、でも人間に生まれることこの上もない幸せです、生まれ変わり死に変わりしてまた人間の生を受けるか、はなはだ覚束ないです。仏法に出会うことはその上の難事です、人間に生まれた目的は仏になることです、そのほかにはない、仏になって全世界を救うんです、一箇仏になれば一箇全世界、地球宇宙が掌する、はいまったく蘇るんです、大死一番大活現成これ、成仏これ、無数の人間の中のたった一人という、いえ一人また二人成仏する以外に全世界を救う方法はないんです。世界平和を叫んだってかえって戦争の種です、歴史が証明するところです。虚しく騒がしいだけです、はいあなた仏になって下さい。地球宇宙が迎え入れてくれます、ようやく人生であることを知る。あいがたき仏法、浜砂の一握の中の一粒にも及かぬこと、全世界見回したって仏教を云い仏を云うお騒がせ困ったさんだけです、仏は皆無です。まさに仏にあう我らを願うべし、まっしぐらに精進して下さい、必ず得て下さいそのほかになんにもないんです、まっぱじめっからこれ。」

「わしに参じない人は用事がないです、どうかお引取り下さい。」

「人間味ってなんだあどあほ、やっぱよそへ行け。
そんなん百万年やったってだちあかん、さっさと止めちまえ。
ちがう、こっちがひっぺがそうとするやつを必死でしがみつく、ただそれだけ。象は自分を象だと知らない、云わない、人間はなぜ人間といい人間らしいと云うのか、そういうたんびに残虐な殺し合いいがみあい自然破壊だ、知らぬもっとも親切という禅語を知って、知らぬもっとも親切を知らない、達磨を知って達磨に会わず、こんなこと一瞬も許されるものか、いいか気がつけ、でなきゃ参禅にならぬ、わしの云うこと疑うんなら去れ。
なにをどーやるこーやるしないの、もやもやしたって外の風景はもやもやしない、外の風景=自分。わしんとこきて坐が坐にならない、なぜだ、風鈴さんも同じてめえ囲っておいて、坐禅に狙いをつける、そうじゃない囲ってる自分、そいつの問題だ。あべこべやってるんだよ、それに気が付かないんなら時間の無駄。やたら苦しんでなんにもならない、見ちゃいられん。」

「ぎえんさんてだれだ、ばんけいってなんだ云ってみろ、くず。」

「蚊子鉄牛を咬む、仏に出会うことなければたといどう足掻いたって一歩も行かんです。仏に出会いながら仏を見ず、蚊子鉄牛を咬むのたとえです。勝手に解釈して文芸評論ですか、フェユトン時代300年とヘルマンヘッセが云った、本来事とらしいあげつらうことの区別が付かなくなっている、常識から一歩も出ないでとやこうは、自分を改変すること不可能、仏道とは縁がないです、達磨はどうの盤桂がどうのといってお茶を濁す。一滴の血も流れぬ、仏は真っ赤な血です、生きるとは命がけです、壁立万尋です。わしが不是と云ったら不是、しょうもないのは要らんです。」

坐禅の方法、ただもう坐る、いいだろうが悪いだろうがめちゃくちゃだろうがどうもならんだろうがただ坐る、手付かずです、自分というもと手つかずです、手を付けたって付けなくたってこれ、ノウハウあるうちは坐禅にならんです、始めも終わりもないもとまっただ中です、こんなにたやすいことはないです、安楽の法門、菩提を窮尽するの修証です。」

「下劣あるをもって宝几珍御、驚異あるをもって狸奴白狐、どんなふうにな牢と現実なんです、うまく坐れようがめちゃくちゃだろうがどうもならんだろうがそれっこっきり、見なければない、自分を眺める自分がもとないんです、きらきらしい悟りとか悟境という嘘です、だれが物差しをあてがうんですか、物差しは自分そのものです、だったら円了なんです。本末転倒を止す、真正面なーんにもなし。こんな単純明瞭ないというのに、知れる人きわめて稀です、何故か。」

「捨身施虎、お釈迦さまが前世において修行中に飢えた虎が現れた、身を投げ与えて虎を救ったという。その因縁で弥勒仏より先に衆生済度に当たると、シルクロードを伝わって日本まで来て、玉虫の厨子の絵柄になる。けだし仏教そのものです。参禅するのに手前どうだいいのわるいのないんです、飢えた虎はなんだって食う、なりふりかまわず身を投げ与え、これ仏です、仏の教えです。食われ終わって説教ですか、ばかな、説教なんてものもとっからないんです。」

仏道を成ずるになんなんとして十劫樹を観ず、虎の欠けたるが如く、馬の夜目の如し。たしかにこれ他にはないと知りながらどうしても行ったり来たりです、百回二百回の接心にも大安心しない、なぜか。虎は人を食うと耳が欠けるという、大死一番大活現成とたんびに後遺症が残るんですか、死にきらないなにかしら、馬の夜目の如くと、次はこうなるだからそうなると余計ごとを見る。どうしたらいい、尽くしゃいいです、ついにはそうやっている自分を捨てる、仏もなく仏教もなく自分という空っけつもなく、不満も不信も糠に釘なんですか、ただもうもとっここれ、生まれ本来ただの人を知る、はい今日はこれ明日はこれです。」

「我昔所造諸悪業、皆由無始貪じん(目に真)ち(痴の知を疑に)、従身口意之所生、一切我今懺悔という、坐禅はまずまっさきにこれです。臨済の在家の弟子でいた大姉があって、なかなか俳句を作り云うことは云うようだし、二三年参じてある日とつぜんわしの手を握って、なんていうわたしは思い上がっていた、人には迷惑のかけっぱなしでと泣く、ちらとも悟ったんです、どうしたらいいのかという、わしみてえな極道者でも生きているんだといって、ようやく坐禅坐禅になるというのに、体をこわしてそれっきりになった、残念です。若い元気なうちにどうかやって下さい。取り付く島もない手付かずの坐禅です、ただもう坐って下さい。」

「細には無間に入り、大には方所を絶す、喫粥喫茶のおりに気が付くと手に持った茶碗の中にころっと入っている、はあっと悟る人がいます、悟ったからと開き直って却って邪魔になったり、無間に入り方所を絶すは身心なしです、坐っていて心身なしは忘我です、忘我の周辺に悟入し悟出する、よくよく看て取って下さい、何を看て取るのか、問いであり答えである毎日です、いったいおのれとは何か、問いがあるんですか、答えがあるんですか、はあてさてうっふっふ。」

「他はなんにも知らんです、これっこっきりと云う82になる現役の鮨職人がいた、ほんとうに最高の鮨を握るそうで、十数人の若い弟子どもが真底従いつく様子。言葉でどうしろああしろと云うのは下の下で、学校の先生じゃろくなもんは育たないですか。老師がテレビに出たことがあって、駒沢大学の教授のきらきらしい悟りとかいうのにうんざりってわけでもないが、わしは他になんにも知らんですと云った。すっきりする。でもこれっこっきりという、これがないんです。仏教というものがないんです。仏は仏を知らず。」

「仏祖の往昔は我らなり、我らが当来は仏祖ならん、これゆえに始めから自分用なしの坐禅です、自分を見る観察するすべてうそです、嘘を取り扱う自分が要らないんです、ただの工夫これ、具合がいいうまくいったの底を抜く、うまくいかない苦しいの底をぶち抜く、ものは始めからすっからかんです、虚空が虚空する、坐禅坐禅するんです、初心すなわち仏教入門以前と、大悟徹底したのちと同じです、これゆえに用なし、死んだのまったく変わらぬ世間と思えばいいです。わずかに楽しみがある、全宇宙の主人公です。」

「君見ずや絶学無為の閑道人、真を求めず妄を除かず、これの出来た人を仏という、仏祖というんですが、世の中から完全にはみ出してしまっているふうです、人間の社会を抜け出すそりゃほんとうに幸せ楽天と思いませんか、あっはっは食う寝るだけというほどに、飲んで歌って鼓腹撃壌ですか、花のように200%けれんみもなくぽっかり咲く。いいですか宗教や共産主義によっておさらばするんじゃないんです、自分たちだけの理想社会というはた迷惑じゃないです。鯨取らないだからいいってんじゃない、牛豚物扱いの牧歌的じゃないです。妄想百曼陀羅のまんまにかすっともかすらない、妄想とは個人の独創などないです、妄想=世の中です。わずかに自分失せる、無為の閑道人です。死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき。ゆいけんけんじゃくただ憎愛無ければ洞然として明白なり、内も外もなく坐って下さい、観察する自分なくされる自分なく。」

「あれは不思議な男だ、これがこのまんまだからと云ったらこのまんま坐ると老師が云った、これがこのまんま、もとこのまんまといくら云っても自分で趣向する、いじくりまわす、自ら進んで万法を証しようとするのを止めない。不思議な男は思議にあずからず、思いのほかの事実を直きに手に入れる、雪下ろしに屋根に上ったと思ったらもう下りてきて、へんだようと云うおれが雪なんだか雪がおれなんだかわからねえと、自分という垣根が外れたんです、持病があって気にしていたのを問ふと、いやありゃ付録だかんなあという、がらり変わる。こんなのもいた、野球をやっているとバットを持ってぐるぐる廻る、おれがいないおれはどこへ行ったという、ほおっと終わる姿。仏の云うことはほんとうだったといってためつすがめつするのもいる、言い草やだからどうのじゃ至らぬ世界です、これがこのとうりこのまんま、自分の入る余地なんかまったくないんです。」

「如是の法仏祖密に付す、汝今これを得たり、宜しく良く保護すべし、大法を得た人に伝える法宝三昧ですか、もとこのとおりある大法の真っ只中にいるのに、どういうわけかそれに気がつかない、なんとしても気がつかせてやりたい、師家も学人も四苦八苦するんです、洞山悟本大師は曹洞宗の開祖ですが、大法のありようをこうと知ってからほんとうに得るまでしばらくあった、ある人地獄を問うのに答えて、ほんとうはこうだと知ってなをかつ得られぬほどの地獄はないと云った、あるとき水上に映った影を見て悟る、影が自分になってこっちを見ているふう、形影あひ見るが如しという、自分まったく失せる、ものみなの鏡ですか、大法とはこれ法宝三昧です、舌頭たたわわとして定まらず、世の嬰児の五相完具するが如しと。」

「心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をしてしょう(金に肖)いん(一タに員)すべし、ほどけば仏というほどけない、自縄自縛の縄をぶった切ることができない、坐れば坐るほどがんじがらめにする、臨済宗の悟りの如きもしくはそんなふうです。そうではないなにしたってろくでもないんです、さっぱり届かないんです、もうどうしようもない、お釈迦さま助けて下さいと必死に願うほどにようやく坐になるほどです、どうしようもなかった、来し方すべて身も心もお話にならぬ、申し訳ないっていうんです、まっさらになるんです、まっさらを見ているんではないんです、強いていえば首くくる縄もなし年の暮れ、坐りゃ坐るほどにてめえしょうがねえなあっていう。はい近いですよ。」