坐禅 40分×2

・いいから坐れ

「アッハッハ、これやってみる気になる人は、そりゃまあ思想だのって、たいてい一つっことやり尽くした人だな。世間体のどっかぶち破れないと、いじいじと思い込み人生やってますよ。
どっ汚いお仕着せ脱いでみないと、くっさ−っての分からない、動物の死体と糞とごみあくたとを首飾りにして、首にかけたという、古代インドのたとえがあります、その汚臭腐乱にあるとき気がつく、七転八倒してこれを外そうとする、外れないっていうんです。
気がつかなきゃそれまで。」

「あなたね、極楽浄土が想像できますか、思い描くことができたら、それはうそなんです。でもほんとうに、思い描くことができたら、デュ−ラ−やホルバインの百層倍の絵、そいつがかってに動きだしたりします、自分の現実を抽象化するんですよ、摩訶止観等古来あったんですが、オ−ムのように、いいかげん妄像、薬をもってというのはうまくないんです。因みに禅門ではこれを途中段階−取り扱ってはならぬ−と示します。
 まざまざと見えるんです、極楽浄土といっている人は、見られるといいです。というのは仏教という、悟りという知識じゃないんです、そんなこといくらいってもだめです、腹の足しにならんというより、不明なんですよ。

明日の生活一年二十年後の自分、成長してないと不安だという、ではそういう自分を捨てればいい。
 捨てようとして、捨てられますか、捨てたつもりが同じだったり、無気力、どうでもいいやとか、−
 知識つまり頭ん中で捨てるからです、極楽浄土を云々と同断です。

 たとい座禅でも摩訶止観でもいい、やっているかぎりは捨てられているんですよ、本来になるに従い、捨て切っているんです。すると一年後十年後をもっとちゃんと考えるんです、捨てられている=自分のことを外から見られるんです。乃至は行深般若波蜜と充足した時間がある、満足する自分です、不安が消えている、
「成長なんてしんきくさあ。」
というんですよ。おらそんなえらかねえやとかいって、得るものを得る、平気でものごとやってるんです、人がよっついて来ますよ。

 むかしこんな話がありました。せっかく出家したんですが、物忘れがひどくって、頭悪くて困った、このまんまじゃどうもならんとて、お不動さんのお堂があって、そこへ籠もる。三七二十一日の間坐っていたら、お不動さんが現れて、長短二本の剣を示して、どっちを呑むといった。どうせなら長いのをといって、そいつを飲み込んだ。
 明日の朝からっと晴れて七通八達、つうかあになったというんです。実話なんです。
 ぺいぺいのカメラマンがニュ−ヨ−クいってことばもI don't knowで参っていた、夜中必死に坐ったら、目の前にでっかい仏さんが坐った、ほんとうに、
「手伸ばしやさわれるっていうふうに。」
 という、そのあと外人恐怖症とか吹っ飛んだと、これわたしの聞いた実話。

 悟りは境地じゃないんです、発見です、自分の辺にある、もとどっぷり浸けを、証せずんば現れずです。
 現わすためには、やるんです。」

「でも問題の本質は変わらない。心の病を癒すものは心をおいてないんです。一に本来心を知ればよい。他から教えられて知るものではない、もとあるんです=あるがまんまといってないんです。
 物差しをあてがうも心。あてがわられるも心。
神経症とは絶えず物差しをあてがうことから始まる。
 ほんらい不可能なことをしている、どこかで不可能を知っている。心という実に単純なのに、こんぐらかり、こんぐろまりっとの始まりです。修正しようという作用が病そのものです。

 困ったことには、たといどのような精妙知識も、別口の物差しなんです。
 ついにこれを破る以外に方法はない。
 ないものをあるとする不自由から、まるっきりないの自由空間へ。
 (神経症を病気とみず、自然な心のありようだとして、薬も使わず、そのまま生きれば、神経症になりきれば、全快するというもの。もっとも、悩んでいること自体が自然なことですから全快というのもおかしいわけです。) ではこの物差しをぶち破るんです。」

「修行必死こいてやってるつもりが、てめえのいいわるい得て勝手から一歩も出てないことに気がつく。今んとこどーしよーもならんぜ。」

「能書き垂れてるこれ思いの中、無という有るんです。」

「自分あるかぎり何やっても自我。仏にはあらず。」
「問うて答えを頂く、三拝です、なにか人間としての基本技に欠けてるな、そういうのまずもって見性しない、なぜか、てめえの始末がつかんからだ、宮部なんかきれいさっぱりしていた、らっきょう和尚もそうだったな、おむつくっつけたやつはらちあかん。三十棒。」

「つまらねー御託並べてんじゃねーの。平和主義が殺人だの大喧嘩平気でするぜ、参禅てなんなんだ、ちったあまともにしれつんまらねえ。」

「コーヒーは砂糖を入れたらかきまぜないでミルクってえかあいつ入れてそのもんあま飲むの、ミルクでコーヒー占いできるよ、最後の砂糖残して甘みを楽しむ、王侯貴族の飲み方じゃあいわかったか。」

川上老師のコメントより引用させて頂いております。感謝申し上げます。三拝。