坐禅 40分×2

・以下、川上老師による。

「生死の問題はその人についてたった一つ、とは向かい合うすべてってことです。座禅見性もふだん安穏な人はななかなか至らないです、なにごとかあってにっちもさっちもゆかずなって来る人いっぺんに行きます、問題解決再出発といって、喜んでそれっきりにしちゃう人多いですがね。生死の問題=破家散宅ってむかしから言ってます。」

「生死を明らめて下さい、生死=四苦八苦ものみなのすべてです、類推や直感あるいは知識きれいごとじゃない、じかに見て下さい、押しても引いてももうこれっきり、ついには忘れる。いわんや全体はるかに塵芥を出ず、歓喜なきにしもあらず、言い草だけじゃさっぱりですよ、真っ正直すなわち智慧です、自分ごまかしてなーんになるってね。」

「あらなんか死神に取りつかれてるみたい、気をつけて。でもさたといどのような事件も、心になんの影響も与えない、このことしゃばの人知らないんだよな、無心、返り点をうつと心がない、ないものは傷つかない、金剛不壊という、これが仏の救いです。単純このうえない理屈です。はい、でなくばわしなぞとっくに自殺、殺人きちがいーとにかくめちゃんこになってたです。過去のこと振り返らないよ、思い出すのはいつでも、ふわっとそれっきり、花のように如来、来たる如しの暮らしがあります=無心。これほんとう、はーいほんとう。」

「参ずるって気起こさなきゃ人間じゃねーぜ、昨日のおれは今日のおれじゃない、至りえ帰りきたろうが、いいえさ至ればなおさら至らず、赤貧洗うが如く、法界ものみなかくのごとく。鳥獣雪月花。自分というものなしに=無心。はいはい一人でやってて下さいとはなんていう言い草だ、一人なんてもんこの世にあるわけないぜ。なにかてめえっていう囲いあると思っているな、そいつが大間違いってこと知る、人間ことはじめだよ。くされきんたま引っこ抜いてやるから、もじけてねえでやって来い。」

「思想の失せるところをもって参禅、参禅するにしたがい、うさんくさい思想が吹っ切れる、なんてあほうなことを今までってわけです、ものみなそうですよ、バット振ったことのない人間が議論百発、振ったとたんにあほらしいってなもんの、ただもうバット振るんですよ。ことに我と我が身心、どうしてもこれをっていう一心のほかは、ただもう邪魔になるっきりです、わるいことよりいいことのほうが、近似値ほど邪魔になるんです。思い知って下さい。」

「自分でとやこうやってもせんないことを知る、ものみなまったく変わらんのを、自分はどう対処する、対処する自分のないことを知る、こてみな人為のものじゃないです、自己をもて運んでなんの甲斐もないことを知る=参禅。坐断する、坐りつくすんです、あっはっは結果を求めないの、いけねえ、しゃちほこばらなくっていいよ、いろんなことしながらひまあったら坐るんです、ぜんたいわがものですよ。」

「ぎりぎりのことってしばしばあります、なにこそ死んでやれって踏ん張ると、すんなり乗り越えられたり、不思議に力が湧いてきたりします、まあほんとうに人間てどえらい可能性あるんだなあと思ったり、でも無理したらその三倍休む要領でしょうか、ソレと疲れるのはとやこうだからどうのやるからですよ、こんなんおれ大丈夫だろうか、いやさもっと踏ん張ればとか、人はこうだからとか、余計なお節介で疲れちまうです。人はあるもの=現実には悩まない、ないもの=架空によって悩むです。無責任行き当たりばったり結果往来、わしのお奨めでーす、心配は他人にさせる、てめえのったりのほほん、じき忘れちゃう、これもっとお奨めでーす。仏はほっとけさまよりえへ。」

「さすがわかりが早いなそのとおりです、せっかく正師に会わねば一生どうもこうもってことあります、はいみなさん既に正師に出会っていますよ、さあまっしぐらです、必ず今生において開示して下さい、実にそれだけが三世を通じて、われらが意義です。」

「なにしろ坐る、これ最短距離。」

「一人よくなりゃものみな救えるこれ仏の教え」

「どうですか坐ってますか、なにしろ坐って坐禅が好きになって、ひまさえあれば坐るってのが、もっとも端的です、人生坐るっきゃないと知った人が勝ち、そうして身心脱落です、自分という垢汚れた来たきり雀を脱ぐ、こーんなにすばらしいことないです。自分=世間=すったもんだのすべてに、出入り自由の身、脱落身心ですよ。」

「それは間違ってます、この世に悟ったものもなければ見解なぞありっこないんです。それをちらとも悟ると、それをもって他にひけらかし、おれは見性何段だいや序の口だとやる、悟りとはかつて迷い迷っていた、ほんとうはこうあるべきと気がつくことです、もと悟りなんかない、やんぐ間合いさんも、なにかしら持ったとたんに変なことを言い出す、ふつうの人より悪いんです、もしくはきちがいの道です、いったいわしらが何を求め、仏とはこのわれのほかにあるべくもないことを、今一度よくよくたしかめて下さい。帰家穏座ということ、老師はにこにこ春風駘蕩であったが、悟ったともって行ったことがある、そのときの恐ろしいてか怖い顔をいまだに覚えています、本来事を忘れるなという親切、いいですか、これゆめゆめ間違いのなきよう。

「はい人間とはなんぞや、どうか答えを出して下さい、見たふう聞いたふうではない、自分で出す以外にない道です、人の真似事借り物ではどうにもならんです、すなわちこれ参禅。」

「楽しんで坐る、ひまさえあれば坐るってのがいいです、結果を予測しないで、結果どうなるかなあっていう楽しみ方、ほんとうにあるとき自分失せて、大喜びしてる人何人も見てます、へえ坊主のいうことほんとうだったんだって、あっはっはまったく本当ですよ。」

「なにさ観察しっぱなしになりふりかまわず行けばいいです、是あり不是ありどっちみち自分です、挙げて仏の家、お供え物みたいなもんで、うっふ自分の取り得ないんですよ。」

「まず悟る、すると坐れるようになる、生活が始まるんです、命捨てないと悟れない、人みなけっこう苦労するのかな、めちゃくちゃなんでもありあり、あるいは仏さまを信じ切って坐るんですか、一人また一人悟るから面白い、自分がなくなったいっときがあります、はあっと我に返るふう、変だなあありゃあという、わかんない寝るとかいって、飯台さぼった人もあったな、さまざまでも事は一つ。結果を予測しない、いいですかこれだめあれいいんじゃない、めちゃくちゃあんでもありの、ひまさえあれば坐る、坐禅を楽しむふう、そんなに手間かからないんです。」

「座禅なんかだーれもしない宗門、座禅とはらしーく人に見せてゼニ取る仕組み、なんとかしねえとったってとうに命脈尽きてらあな、ばかったくって嘘っぱち、まいーか生きてるかぎり復活だあ、てめえ1個えーともう1個に伝えてな、これさ早く法をつげ、それっきゃねーよ。」

「なにもかもただこの事実です、だからどうなんだよくなった、悟りのかけらという前に、ほんとうに無上楽、もはや此れあれば人生ほかなんにもいらぬ、死んだっても悔いはないというものを手に入れて下さい、なんにもないを坐る醍醐味です。見ている自分があれば不可。」

「世界中に自分一人きり、さあどうしますか、自分のありようを自分に報告したってなんのいいこともないです、喜怒哀楽無上楽如何。」

「とにかくもう坐るよりないって、必ずや自分の、いえさ全世界宇宙の一切に答えてくれるって、それをのみ頼りに坐って下さい、満足するものは自分という身心一個、であったら必ずや大安心、大満足です、ハイこれ本当。」

「坐り方が間違っているからです、いつまでたってもいいのわるいの定規あてがって自分を見つめている人=見る自分と見られる自分の二分裂です。自分が自分になる季節、まるっきり手つかずのただ、ついで忘我。五つぐらいの子がすっと行くことがあります。あるいは坐り尽くす、おのずから手つかずになる、たいていこれです、だから役に立つってことあります、人の人生の百個分ぐらいを卒業する感じです。またどうにもさまにならん人は、坐ってりゃいいことした、ありがたいと思う人、人真似ばっかりのらしい禅とか、あるいは臨済宗の見性学校、段階を踏んでとか、いつかな自分ということにならない座禅です。正直にただわれとわが一身の問題と見るとき、あっというまに来ます、他の判断によらないこと。」

「自分のない実感てのあるんだよ、面白いよ、身心脱落という、心ほんとうに失せると無自覚なんだけど、至り得帰り来たって別事なし、柳は緑花は紅。ものみなこうあるまんまにわしといいほかという、喜怒哀楽まっしんに至る、知らないというその真我、有無の論はとやこういってるあいだはなーんもならんです、ちらとも見るといい、お釈迦さまの言うことどうやら間違いないです、自分ない=こうんな楽しいことない。うつせみという実感とおいう、一年365日夢という、現実であればあるほど夢、目の当たりだけっていうんですか、反芻し取り扱わないんです。うっふっふでもってかくはろくでもないわしですよ、すんません。」

「はいそういう手つずきを一切辞めて下さい、まったくのまっしぐら。どうしようもなく坐って下さい、もとこのおのれどうしようもこうしようもないです。」
「死んだ子どもを忘れられない母親に−自分も死んでみるしかないんです。
慰め励まし助言とかいうの、殺し文句の世界です、キャッチセ−ルスみたいのにころっとやられる、いっときなんとかなるってことです。夢から覚めてまた夢というより、夢のまた夢、迷いの上の迷いです、頭上に頭を按ずといいます。

死ぬ方法の一つは、壁に向かって坐る、面壁です、坐ったらどうなるの結果を考えたら駄目です、坐っているとか思う脇見運転だめです、なりふりかまわずです。

なんとかならないかって坐ったらなんとかなるんです。わずかに心意識の上の問題です、だったら身心そのものが必ず解決するんです。古来みなそうやってやって来たんですよ、お茶を濁したらお茶を濁した人間になってしまう。答えが出なかったら、生きてはいられない。これ解決のたった一つの方法ってこと、今の世だろうが心理学もなにもないんです。

でもね、そうやって坐っているでしょう、身心あい整って来るんです、つまり余計ことどっかへ行く、すると死んだ子がまざまざと出て来るんです、「ああ、あのときわたしはなにもしてやれなかった、そうじゃない、わざと意地悪して、そっぽ向いて、そんだのにあの子は、−」自分を責めるっきりない、三心不可得というその現実のまんま、ばかあ−っと来る。号泣の他ないんです。「もう坐れない、許して。」といって来る。「いいから坐りなさい、仏さまがお前を罰するというんなら、首さし出すんです。」 坐るんです。不思議なんです、何度か去来する、哀しい我が子が、二度と同じふうには去来しないんです。同じふうに思い出したって、もはやかつての影響力は持たない。死ぬということです=解き放たれるんです。これを生半可にやる、つまり半分逃げるからいつまでも追って来るんです。三心不可得−過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得。悩み苦しむ等およそ不可能だっていってるんです。

かつて我が子が死ぬるほどの大事件があると、出家剃髪して、ほんとうに この三心不可得をうる、生死を明きらめたんです。その仏門がなくなってしまいました。

じゃ人間どこへ行ったらいいんです。日本は滅びるではないかと危惧します。キリスト教邪教だけれども(というとまた怒られるんですが、)ちゃんと修道院があります、テンプル騎士団やフリ−メイソンが文化を担って来たんです、文化とは人類あし草の成長点です、止まったらもうおしまい、腐れるっきりです。

禅門が大いにこの役を担って来ました。今はない。そんなことはない、復活すればいいではないか。腐ったらたった一つの種でいい。必ず芽吹くんです。おれはなんだからといってないんですよ、一個半個(わたし)という形骸を脱するんです。 」