ふだん見慣れていたものが、ある出来事をきっかけに、まったく異様なものに見える瞬間がある。何の疑いもなく「知っている」と思っていたものが、突然理解を超えた存在として立ち現れ、私たちをぎょっとさせる。
この本で展開される秋田論のトピックを読み進めるうちに、私の生まれ育った秋田が、まるで異郷の地のように感じられる瞬間が何度もあった。
たとえば、なまはげである。自分にとってそれは、年末に家々を訪れ、子どもを戒める行事にすぎなかった。いわば、季節がくれば咲く花程度の認識だ。しかし、その起源を辿ると、神々と人間を繋ぐ儀式的な意味が見えてくる。その異様な面差しや荒々しい言葉遣いは、ただの「伝統」ではなく、古い時代の恐怖や祈りを宿したまま現代に現れる異空間の存在だ。
こうした秋田の行事をひとつひとつ紐解いていくと、同じ場所にいながら、私たちが現在生きる世界とは異なる時間軸に息づく共同体のいのちが感じられてくる。それは自分が生まれる前、自分が知り得ないはずの空間にあるものなのに、確かにここに存在しているものだ。その感覚は、遠い過去に取り残されたわけでも、完全に失われたわけでもない。私たちが無意識に過ごしている風景や習慣の中に、深く埋もれているのである。
未知なるものは、遠くにばかりあるわけではない。身近な場所にこそ、わたしたちの眼が見逃している異質で豊かな他の世界がある。いま立っているこの場所を深く掘り進めることで、そこへアクセスすることもできるだろう。そして、その強力な手段となるのが写真であるにちがいない。
あとがきにあるように、セガレンは「写真は、異文化間の接触の衝撃をいつまでも反響させている」と述べている。写真とは、自己を他者として理解することができる魔術だ。その魔術を通じて、秋田の地に宿る異空間を写し取ることは、失われつつある文化の精神を掘り起こす試みでもある。
こうした視点を持って、写真を撮りたいと思う。ふだんの風景の中に潜む未知なる世界を見出し、その豊かさや異様さを通じて、新たな問いを生む写真を撮りたい。そしてそれは、身近な場所の「異質さ」を探求する一歩となるだろう。
